河合町地歌舞伎
飛騨 歌舞伎

手作りの舞台と地元の役者

受け継がれる娯楽、地歌舞伎を知っていますか?

地歌舞伎は、プロの役者さんが演じる大歌舞伎と違い、地元の素人役者によって演じられる、地域に根差した歌舞伎であるという意味で「地歌舞伎」と呼ばれ、その歴史は江戸時代までさかのぼります。岐阜県は地歌舞伎が盛んで、特に東濃地域には芝居小屋が多く残り、現在も興行が行われていますが、飛騨地域でも村内の各神社で、地歌舞伎が行われてきました。始まりは山中和紙や養蚕を営む人々が江戸や上方から見よう見まねで持ち込んだのではないかといわれています。

 

飛騨 歌舞伎

見得を決めおひねりが飛び交う姿

見得を決めおひねりが飛び交う姿

 

地歌舞伎にはただ演技をみるだけでない、独特の楽しみ方があります。役者に花を添える「おひねり」も地歌舞伎の特徴的な楽しみ方の1つです。おひねりは、50円分くらいの小銭を和紙にはさみ、包み口をひねったもので、演技の見どころ、役者が見得を決めたときにおひねりが飛び交います。他にも、「大向こう」と呼ばれる役者への声掛けがあります。「大向こう」もおひねりと同じように、見得を決めたときに、「日本一!」「待ってました!」など、声をかけることによって場の雰囲気や、役者を盛りあげます。

 

河合町では大正、昭和時代に最も盛んに行われており、角川地区では神明神社の境内にある「角川座」で行っていました。このころは、米の収穫量よりも「ひえ」「大豆」「焼き畑による菜種」などの生産量が多く、養蚕や紙漉きがどの集落でも行われており、決して金銭的に裕福でありませんでしたが、お金の有無に関わらず、村中の人が参加していたそうです。

地歌舞伎は、地域の人々にとって長い農作業が終わり、秋の紅葉とともにやってくる待ちに待った娯楽でした。そのため、良い席を取ることも難しかったので、「桟敷取り」といって、公演の日にこどもたちが、朝早く家から「むしろ」を持って、角川座へ席取りに行っていたといいます。昼頃に家族が幕の内弁当を持ってくるまでの間、場所が取られないように、「むしろ」に座って待ち、いざ公演が始まると、秋の日差しと心地よい口上を聞きながら寝てしまうこともしばしばだったとか。

 

飛騨 歌舞伎

昭和18年頃の角川座  写真提供:政井 博氏

 

河合の地歌舞伎は、代々お年寄りから、子供たちへと受け継がれてきました。現役を退いた後も、舞台を組んだりと裏方として支えます。しかし昭和時代の終わりごろからは、急激な過疎化や娯楽の多様化によって衰退していた時期もあり、角川座は残念ながら昭和後期から老朽化のため、使われなくなりました。先が見えないことからお金のかかる大規模な工事もできないまま、現在は公民館で行われています。歌舞伎自体は有志により復活を遂げ、平成19年には歌舞伎保存会が設立されました。興行も年1回ですが200人以上が集まり、大変な盛りあがりを見せます。今では若きに伝えようと地元の小学校で地歌舞伎教室を開くなどしていますが、20~40代の継承者が非常に少なく、現在の裏方が高齢化するまでに何とかしなければと苦労は絶えません。

今全国で盛り上がりを見せる地歌舞伎。いつの日か、角川座の復活はあるのでしょうか。

(この記事はSatoyamaExperienceの過去の記事です)

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